朝来ればこそ.7コメント

1 夏河ゆかこ id:5QSDpgc0

2011-09-14(水) 21:53:37 [削除依頼]

心優しいあのかたがたがわたしにお教えくださったのは、
なにごとにも勝る、人を大切に思いやる大きな心と深い愛だったのです。
  • 2 夏河ゆかこ id:5QSDpgc0

    2011-09-14(水) 21:54:14 [削除依頼]

     古ぼけて傾いたアパートメントには冷たい春の風が吹き込んでいた。よく日に当てた温かな毛布にくるまれて本を読む。温めたばかりの牛乳に蜂蜜を注ぎ、少しずつ芽吹く窓の外の木々を眺めていた。緑に塗られた窓枠にはいくつかの古い手紙がピンで留められている。当時でも流行遅れの古い個性的な字体でしたためられたそれは、わずかながら鮮やかな記憶を蘇らせた。どういう考え方の持ち主だっただろうか、しかしこの細かな字はヴィンセント爺さんのものに違いない。彼もかつては大した紳士で、とても流暢で巧みなフランス語を操った。ヴィンセント爺さんのフランス語は古めかしい、型にはまったものだった。今ではだれ話題にしない洒落をふたつやみっつも、よく口にしていたものだ。しわくちゃの愛想のいい顔をほころばせて、ヴィンセント爺さんはよく語る。南部の田舎で過ごした、少年の頃の甘い回想を。

     貧乏というほどでもなく裕福でもない暮らしだったが、ダニカに不満はなかった。パリの端の狭いアパートメントには古くはあるもののそれなりの味がある。毎日のパンと、少しのスープとサラダを作るだけの野菜があれば生活は十分だった。ミルクをたっぷり入れたカフェオレもあれば、文句なしだ。ダニカは老いた母とのふたり暮らしなのだから、そう華やかな日常である必要もなかった。母のアニェスは日中ベッドに横たわり、あれやこれやと他愛のない昔話をダニカに話して聞かせた。ダニカはそれらをすべて少なくとも一度は聞いたことがあったけれども、特に構わず楽しげに相づちを打った。幸福な生活に必要なのはむずかしい理論や筋道の通った会話ではなく、少しの楽しい気分なのである。掃除にしても料理にしても、洗濯場に出かけるにしても、ダニカはつねづね楽しげに体を動かした。彼女が何かを嘆くことなどただの一度もなかった。

     ブロンドの髪を三つ編みに結い、少し裾の広がった服を着、ダニカはかたい木の椅子から立ち上がった。買い物へ行く時間だ。今ならパン屋もちょうどいい具合に焼けたパンをどっさりと並べはじめている頃だろう。
  • 3 夏河ゆかこ id:5QSDpgc0

    2011-09-14(水) 21:55:25 [削除依頼]

    「母さん、あたし、買い物に行ってくるわ」

     ショールを羽織り、小さなパウチから鍵を取り出す。戸棚にさっと目をやり、チーズとパンが切れているのを確かめた。

    「今日は見本市の日かね」
    「ええ。たしか」
    「ああ、ダニカ。この家にはもうお金はないよ」
    「そうね、だけれど、私の昨日の稼ぎがあるわ」

     ごそごそとダニカがポケットを探れば、銀貨がいくつかこぼれた。アニェスはぼやける目を凝らす。その数はとても多いとはいえず、ほんとうにささやかな額だった。それでもダニカは老母の心配に気づいているのかいないのか、明るい表情は崩さずに落ちた銀貨を拾う。

    「じゃ、行ってくるわ。ヴィンセントのお爺さんがきたらご挨拶をね、母さん」
    「わかってるよ」

     アニェスはあまりヴィンセント爺さんを好かなかった。年老いた女からすれば喋り好きの爺さんはあまり好ましいものでないのだろう。アニェスも話すことが好きであるのだから自己主張を押されてしまっては気分が乗らないのである。とはいえアニェスとダニカのひっそりとした生活も、陽気で愉快な隣人のお陰であるといっても過言ではなかった。アニェスも渋い顔はしながらも、いちいちきちんとヴィンセント爺さんの話に相槌を打っているのである。

    「気をつけて行くんだよ。悪いね、ダニカ」
    「構わないのよ、母さん」

     朗らかな笑顔を浮かべ、ダニカは古ぼけたドアを押すのだった。


    **
  • 4 夏河ゆかこ id:5QSDpgc0

    2011-09-14(水) 21:57:50 [削除依頼]

     アパルトマンのそばに帰れば、もう太陽は上がりつつあった。ささやかな日の光が大きな建物を照らしている。まぶしい思いをしながら、ダニカはストールをくしゅくしゅと首に再び巻き、部屋への会談を駆け上がった。片手に抱えている大きな紙袋を椅子の上に投げ出し、アニェスのもとへ駆け寄る。

    「母さん、もうヴィンセントのお爺さんはきた? コーヒーを分ける約束をしていたの」
    「爺さんかい? まだだね。それより、さっきからあの陰気くさい客人がベッドでごそごそやっているよ。ジイヤポニン…だったかね、東の国から来たっていう」
    「あら、いやね、ジャポニカよ。それがどうかしたの?」
    「だから、ごそごそ音を立ててるんだよ。気になってしかたないさ」

     もう起こす時間かしら、とダニカは寝室の隣の、唯一の空き部屋のドアに近づいた。たしかに耳を澄ませればかすかに音がする。ドアに手をかけようとしたが、ノックをすべきか迷った。はるか遠い陸と海の向こうにあるというジャポニカに、ノックなどという文化はあるのだろうか。だが、ダニカの悩みは無用だった。彼女がドアを開ける前に、がっと大きな音を立てて古いドアは大きく開いたのだ。
     まあ、とアニェスはぽかんと口を開く。なんてがさつな、という言葉をも忘れるほどだった。ほどなくしてダニカはやはりノックの文化はこのジャポニカから来た少女にはないのだろうということを悟った。
  • 5 夏河ゆかこ id:5QSDpgc0

    2011-09-14(水) 21:58:31 [削除依頼]

    「ボン、ジュール」

     たどたどしいフランス語で、少しショックを受けたような表情で少女が囁く。一瞬途方に暮れたダニカだったが、持ち前の明るさと朗らかさを以って彼女は陽気に挨拶を返した。

    「おはよう、マドモアゼル・サクラコ。お目覚めはいかが?」
    「とても、気持ちのいい朝です。音を立ててご迷惑をおかけしてしまったようで、ごめんなさい」
    「気にしないで、大丈夫よ。パリの朝は明るいのが素敵なんだから」

     とびきりの笑顔を浮かべたダニカが少女の手を握る。
     少女の名は桜子と言った。彼女は音楽を勉強するため、日本を出て数ヶ月に及ぶ船旅の末、このパリにたどり着いていたのだ。ダニカとアニェスにすれば桜子はほんの小さな少女のように見えたが、彼女は既に17の齢に達していた。ダニカとそう差はない。
  • 6 夏河ゆかこ id:tYXeMAZ0

    2011-09-16(金) 21:49:08 [削除依頼]

    「今朝も街外れで強盗が出たらしいわ」

     あたたかいスープを食卓に並べながら、ダニカは思い出したように声を出した。テーブルには既にサラダとパンが並んでいる。ダニカの横では、アニェスが冷めかけたカフェオレをかき混ぜていた。

    「物騒だね」
    「巴里にも…強盗などいるのですね」

     桜子が驚いたようにすると、アニェスは笑いながら首を横に振る。

    「当たり前じゃないか、きっとお前さんの国よりも物騒だと思うがね」
    「でもこの家は心配ないわよ、だって盗るものがないんだから。泥棒だって逃げていくわ」

     ダニカは軽やかに笑う。アニェスもつられて笑った。桜子だけはきょとんと首を傾げる。そうこうしている間にも、食卓の準備は三人の手によって整っていた。アニェスを先頭に、3人は並んで椅子に腰掛ける。ダニカが静かにフォークを取ると、倣うように桜子も大きなスプーンを手にした。

    「おいしそうな朝食…」
    「あら、ジャポニカでは何を食べるの?」
    「お豆腐とか、お味噌汁なんかを頂きます」
    「オトウフ? さっぱりわからないわ! 不思議なものを食べるのね」

     一瞬戸惑いの表情を見せた桜子だったが、ダニカの屈託のない陽気な笑みにホッとしたようだった。彼女のフランス語は不安定でたどたどしくはあるが、会話に不十分なほどではない。静かにコーヒーを口に含むアニェスの傍ら、ダニカは楽しそうに朝市での様子を語った。

     八百屋の妻が子どもを産んだこと、肉屋の主人がパイの食べすぎで腹を壊して肉が買えなかったこと、花屋の並べていた薔薇がとてもきれいだったこと。いきいきと、ダニカは弾むような声で事細かに見聞きしたことを話した。一見無関心そうなアニェスも、じっと耳を澄まして聞いているようだ。桜子には、それがとても意外なことに思えた。日本の自分の家は、この古く安いアパルトマンのようではなく、立派な日本家屋だ。いつも完璧に手入れの行き届いた庭を眺めながら、家族揃って朝食を食べている。家の朝食は簡素ながら気品ある上品な食事で、だれも食事中はあまり言葉を発しない。楽しく会話をして食事をするなど、桜子には慣れないことだったのだ。あまり食べたことのなかったパンを小さく手でちぎりながら、桜子もまた、興味深くダニカの話に耳を傾けた。
  • 7 夏河ゆかこ id:IqkxMMr.

    2011-09-18(日) 17:36:19 [削除依頼]

    「サクラコは、大広場の近くの教会でレッスンを受けるんでしょう? 楽しみね」
    「とても緊張します。ちゃんと言葉が通じるかしら…」
    「大丈夫よ、いまこうしてあたしたちと話しているじゃない!」

     ダニカはスープの残りを綺麗にスプーンで拭ってしまうと、さっと口に含んだ。アニェスはトマトをフォークの先で転がしながらショールに包んだ肩を押さえる。桜子だけが、委縮するように体を縮めていた。しかしダニカもアニェスも気がつくことはなく、しばしの間沈黙を続ける。食事はほとんど済んでいた。

    「会場までは隣のヴィンセントのお爺さんが案内してくれるはずよ」
    「まあ、そんな」
    「散歩はあの人の日課なの。それにとても音楽が好きだから、喜んでいるのよ。ちょっと老けてはいるけどねえ、いい人よ。冗談と読書が好きなの。それに、あたしと同い年の孫がいる。彼は今田舎のほうへ行っているわ、勉強してるんですって」

     目をきらきらと陽気に輝かせ、ダニカはにこやかに語った。桜子の見る限り、壁は薄い。これほどまでに好き勝手に語ってもいいものだろうかと彼女は恐縮したが、彼女の様子を見たダニカは愉快そうに首を横に振った。まだ寝てるわよ、とくすくすと笑いながら囁く。桜子がほうっと溜息を吐くと、アニェスもまたあきれたように息を吐いた。ダニカの噂話は日常茶飯事のことらしい。老いた母親らしいまなざしで、彼女はダニカのスカートを眺めた。

    「ちょっと、そこが破れているよ」
    「あら、やだ」
    「みっともない格好をするんじゃないよ、まったく。おまえもいい年頃なんだから少しは嫁に行くことを考えたらいいのに」
    「何をいうの、母さんたら。あたしがお嫁に行ったら一番困るのは母さんでしょ」

     へん、と吐き捨てるように声を漏らしたアニェスが舌打ちした。桜子はまた怯えたように唇をきゅっと結んだが、ダニカは動じることもなく母を楽しそうに見つめている。彼女はさっと立ちあがり、使っていた食器をテーブルの端に寄せた。洗濯に行かなくちゃ、と独り言のように呟く。箒を手に取り、ついでに、まだテーブルに落ち着いていた桜子に立つように目線で促した。桜子は少しの不安と疑問を表情に浮かべ、ひょいと立ちあがる。ダニカはそんな桜子を安心させるかのようなしぐさで微笑んだ。
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