今はもう、誰もそこにはいない8コメント

1 あぬびすわんこ id:LZBjQvH.

2011-06-05(日) 18:18:23 [削除依頼]
一.『春と修羅』


 庭に面した明り障子は大きく開け放たれ、そこから流れ込む風が部屋の中でゆるやかな渦を巻いている。しかしそれはいたずらに強まって、書見台(しょけんだい)の上に広げられた本のページを勢いよくめくっていった。それまで書き物をしていた青年は顔を上げて書見台の方を見やり、かすかなため息をこぼして閉じてゆく本に手を伸ばし、文机(ふづくえ)に散らばる書きつけの上にそれを重ねて置く。そして倒れるように後ろへ四肢を投げ出すと、それに一拍遅れて鈍い音が上がり、彼の頭部が金の髪を広げて畳に落ちる。青年は鼻に届く藺草(いぐさ)の香りが強まったことを感じ、ゆっくり目を閉じて胸一杯にその香気を吸い込んだ。長時間の読書に疲れた彼の神経をなだめるように、涼やかな空気が全身に沁(し)みとおっていく。
  • 2 あぬびすわんこ id:LZBjQvH.

    2011-06-05(日) 18:22:08 [削除依頼]
    こんにちは! はじめまして、あぬびすわんこです。

    少しずつ書きためていた、いくつかの短〜中編を連載していきたいと思います。
    おつきあいくださると嬉しいです^^ どうぞお気軽に声をかけてください。
  • 3 あぬびすわんこ id:LZBjQvH.

    2011-06-05(日) 18:26:02 [削除依頼]
    >>1  青年が寝そべっている和室から庭をはさんで向かいの縁側(えんがわ)に、壮年の日本人が一人立っていた。着流し姿のその男は口もとに微笑を浮かべて、薄暗い室内に寝そべる青年の姿を見つめている。彼は沓脱石(くつぬぎいし)の上に置かれたパナマ草履(ぞうり)を引っかけると、庭に降りて青年のもとへ歩いていった。 「大佐!」  男が着物の裾(すそ)をさばくかすかな音でも聞きつけたのか、金髪の青年はがばと起き上がって狼狽した表情を見せながらその居住まいを正した。 「ずいぶんと根をつめているようではないか、ノイマン。まさかお前が書におぼれるとはな。……まぁ、ゆっくりしたまえ。ここは軍もなければお前の祖国でもないのだ、そう鯱張(しゃちほこば)る必要はないぞ」  くつくつと笑いながら桐野 栄(きりの さかえ)は片手をかざして青年の行動を制す。しかし栄が許そうとも、上官の前に節度のない姿をさらすなど彼の信条に大きく反することであったのか、ドイツ空軍の士官候補生ディ−トリヒ・ノイマンは正座した腿(もも)を所在なげに手でなでさすって、まったく落ち着かない様子であった。しかしふとそうした態度こそ礼儀にもとることに気がついたのか、彼は失礼しました、と言いながらこうべを垂れる。おもてを上げたとき、そこにはかすかにはにかむような澄んだ笑みが広がっており、頬から首筋にまで走る火傷の痕さえなければまったく清々しいかんばせだった。その若い顔を見やりながら栄は品良く苦笑する。 「なんとも堅苦しいな。自宅に戻っても大佐、大佐と呼ばれてはこの身が休まる暇もない」 「ではなんとお呼びいたしましょう?」  さきほどまで肩口からぴんと糸を張られたようだった体を心持ち休ませてディートリヒは問う。栄は人の良い笑みを浮かべたまま「お前の好きなようになさい」と答えると、草履を脱いで濡れ縁の白っぽく風化した木肌に足を上げた。
  • 4 あぬびすわんこ id:LZBjQvH.

    2011-06-05(日) 20:12:05 [削除依頼]
    >>4  栄が敷居をまたいで部屋の中に入ると、ディートリヒは少し驚いたように身じろぎをして彼に場を譲る。栄は整えられた口ひげに手をやりながら文机に置かれた書きつけをのぞき込み、ディートリヒの承諾(しょうだく)を得た上でその一枚を手に取った。もとは真白の紙の上にはそこを走った万年筆の勢いを感じさせる、力強い筆記体で書かれた単語や文章がいくつも記されていたが、書き手が左利きであることを表すように小指か手の背がかすって伸びたインクの跡がそこかしこに散っていた。栄はあいかわらずの笑みをたたえたまま、背後に控える青年の方にふり向いた。 「もしかしたらお前は、横文字ではなく縦に書いた方が楽なのかもしれんな。そうだな、楷書(かいしょ)ならおもしろいものを書きそうだ。毛筆をやるなら道具はやるぞ?」  その発言に虚を衝かれたディートリヒは、ちらと左手に目を走らせるともう一度栄の顔をまじまじと見つめ、そしてすぐにその緑の目は上官の手の内にある書きつけを捉え、紙の裏から透けて見える自身の筆蹟(ひっせき)をたどった。 「本格的に書を学びたいなら満州(まんしゅう)出身の将校を紹介しよう。彼らに言わせると、行書、草書なら日本人も美しいものを書くが、楷書などになるとやはり大陸出身の者の方がいいらしい。その言葉通り、彼らの手は本当に見事だ」  そう言い終わると栄は、わずかにからかうような色の浮いた瞳でディートリヒを見やった。それを受けたディートリヒは「考えておきます」と真摯(しんし)な声で答え、まっすぐに栄の目を見返す。そしてしばしの間に流れた沈黙のあと、どちらともなく笑い声を上げた。
  • 5 あぬびすわんこ id:LZBjQvH.

    2011-06-05(日) 21:33:47 [削除依頼]
    >>4 「そうだノイマン、夕食はここで食べていくのだろう? まかないにそう言ってしまったぞ」  ディートリヒはさきほどの会話で緊張がほぐれたのか、幾分くつろいだ表情をその顔に浮かべていたが、栄の言葉にさっと血相を変えると、文机の上に投げてあった腕時計へと手を伸ばした。明り障子の向こうを見れば朱に染まった空が早くも藍色の夜を裾にひいており、ねぐらへ帰るカラスの群れは点呼の声を上げてその中を飛んでいる。 「いえ! すぐおいとまします。こんな時間まですみませんでした」 「待て待て。まかないはきっともう、お前の分まで作ってしまったぞ」  謝辞を述べながら帰り支度を始めようとしたディートリヒを栄が苦笑してたしなめる。ちょうどその折に一人の女中が廊下より現れて「お夕飯の準備が調いました」と告げ、栄はその声に答えつつ、そのあごを軽くもたげてディートリヒに立ち上がるよう促すと、何かもの言いたげな彼の様子を黙殺して連れ立って書斎をあとにした。
  • 6 あぬびすわんこ id:LZBjQvH.

    2011-06-05(日) 21:37:41 [削除依頼]
    >>5  まず始めに一番だしで溶いた味噌汁に箸を湿らし、次いで白米を口に運ぶ。そうして鋭敏になった味蕾(みらい)の上に主菜を載せ、酒蒸(さかむ)しにされた甘鯛(あまだい)の淡泊な白身の味わいとふわりと広がる酒精の匂いをじっくりと味わう。つけ合わせには旬のウドが添えてあったが、それはていねいに湯がかれていたようで、真白な肌が口の中でやわらかく溶けた。またかつお節を散らした筍の煮物は底に丸い麩(ふ)が沈められており、それに染みこんだ独特な肉の風味で下ごしらえに鴨を使ったことが知れた。時期ではないためにその赤い肉が食卓を彩ることはなかったが、姿がなくともコクのあるだし汁で食べる者の舌を楽しませる。  栄とディートリヒは季節のものを活かすよう作られた馳走(ちそう)に箸を伸ばし、その繊細な味わいに舌鼓(したづつみ)を打つ。そして漆塗(うるしぬ)りの蝶脚膳(ちょうあしぜん)を前にして正座するディートリヒの姿を見ながら、栄は感心するようにその正しさをほめた。 「白人の男でお前ほど見事に正座をする者を見たことがない。半分は日本人のハンスでさえ、ものの数分で音を上げるのだ。あれが着物を着るといっぱしの宗匠(そうしょう)などに見えたりもするのだがな、それも見てくれだけということか」  くつくつと笑いながら彼は言葉をつむいだが、しかしそこには甥に対する深い愛情が見てとれ、また己とディートリヒにとって共通の知人を出すことによって会話を円滑にしようという意図が多分にふくまれていた。日本文化に深い興味を持つディートリヒは母国でもドイツ人と日本人のハーフであるハンスと親しく交友していたが、その母親は他でもない栄の姉だったのである。ディートリヒはそれに応えるようにふっくりと微笑むと「彼の風貌(ふうぼう)はお母さまに似てやさしげですからね、和服がよく似合うでしょう」と引き取る。そしてしばらく和装は体格が薄い者の方が見栄えがするなどといった話が続いていたが、女中が給仕する櫃(ひつ)の米や二の膳(にのぜん)が尽きようとするころ、濡れた土の匂いとともにひそやかな水音が座敷の中に滑り込んできた。 「雨か」 「そのようです」  二人は閉じられたふすまの方を見やり、庭木の葉をたたく雨足を想像する。金と銀の鞠(まり)が踊るふすま絵の向こうでは、廊下を挟んで立つガラス戸が黒々とした雨の夜をたたえて風にふるえているのだろう。しばらくして雨音をかき消すほどのがたがたという音が届き、そこに混じるくぐもった人声で屋敷の使用人が雨戸を閉めているのだと知れた。そのころにはすでに下げられた膳の代わりに薄茶に干菓子を添えたものが二人の前に出され、彼らがそれを嚥下(えんげ)しているうちに戸外の物音は間遠(まどお)になり、やがてふたたび雨の音をはらんだ夜のしじまが戻ってくる。 「玄関番の話だと、お前は日和下駄(ひよりげた)で来たそうだな。足駄(あしだ)なら何とかなったかもしれんが、日和は雨に弱い。遠慮せず泊まっていきなさい」  しだいに強まる雨声に耳をかたむけながら栄がそう切り出した。もともとは蔵書を見せていただくお約束だけでしたのに、大変なご厄介になって……とかしこまるディートリヒを件のごとくいなしてみせながら、栄は控えの女中に客人を泊める用意をしておくようにと二三の指示を交えて命じた。
  • 7 あぬびすわんこ id:LZBjQvH.

    2011-06-05(日) 21:39:39 [削除依頼]
    あ、また改行忘れてしまった……。
    かぎかっこの前後に一行ずつ挟むようにしているのですが、元の原稿はちゃんと行間を詰めてあるので、間違っちゃうんです。

    栄おじさんのおうちは、たいそう立派な旧家のようですね。
    言いそびれていましたが、舞台は第二次世界大戦のちょっと前です。
  • 8 あぬびすわんこ id:LZBjQvH.

    2011-06-05(日) 21:45:41 [削除依頼]
    今日の更新はここまで。もしもちょっとでも読んで下さっている方がいらっしゃれば、すごく嬉しいです^u^

    「今はもう、誰もここにはいない」というスレタイの理由は、登場人物がたいてい故人だからです。
    手元にある原稿のほとんどが、古い時代を舞台にしてしまったので、2011年にはみなさんお亡くなりになっているのでは……
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