1 なな [2005/08/18(木) 19:38:08]
和泉式部、保昌が妻にて、丹後へ下りけるほどに、京に歌合ありけるに、
小式部内侍、歌詠みにとられて詠みけるを、定頼中納言たはぶれて、
小式部内侍のつぼねにありけるに、
「丹後へ遣はしける人は参りたりや。いかに心もとなくおぼすらん。」と
言ひ入れて、局の前を過ぎられけるを、御簾より、半らばかりいでて、
わづかに直衣の袖を控えて、
大江山いくのの道の遠ければまだふみもみず天の橋達
と詠みかけたり。思はずにあさましくて、「こはいかに、
かかるやうやはある。」とばかり言ひて、返歌にも及ばず、袖を引き放ちて
逃げられにけり。小式部、これより、歌詠みの世におぼえいできにけり。
これはうちまかせて、理運のことなれども、かの卿の心には、これほどの歌、
ただいま詠みいだすべしとは、知られざりけるにや。
(十訓抄)
誰かお願いします!!!!!!!
2 ZIN [2005/08/19(金) 08:53:41]
和泉式部が保昌の妻として、丹後へ下った間に、京で歌合があった時に、
(和泉式部の娘の)小式部内侍が、歌人として選ばれて歌を詠んだが、定頼中納言がふざけて、
小式部内侍が部屋にいた時に、「丹後の国(の母のもとへ歌の相談)に使いとしてさしむけた人は帰って参りましたか。どんなにか待ち遠しく思っていらっしゃるでしょう。」と(部屋の中の小式部内侍に)言って、
部屋の前を通り過ぎなさったのを、(小式部内侍は)御簾から半分ほど(体を)のり出して、ほんのちょっと(定頼の)直衣の袖をひきとめて、
大江山を越え、生野を通って行く道のりが遠いので、まだ(母のいる丹後の)天の橋立には行ってみませんし、(また母からの)手紙も見ていません。
と詠みかけた。(定頼は)意外さにびっくりして、「これはどうしたことだ、こういうことがあろうか(ありはしない)。」とだけ言って、返歌することもできず、袖をふりきって逃げなさった。
小式部は、このことがあってから、歌人たちの間で名声が広まってしまった。
これは総じて(和泉式部の娘だから歌がうまいのは)道理にかなっていることであるけれども、あの定頼卿の心には、これほどの歌を、即座に詠み出すことができるとは、お分かりにならなかったのであろうか。
3 咲月 [2005/08/22(月) 16:41:43]
讃岐典侍日記の訳を教えてください!!!(泣)
十九日に、例の、参らんと思うに、雪、夜より高く積もりてこちたく降る。
ほどなく残りすくなくなりにたれば、おほかたの人も、夜を昼になして、ものも
聞こえぬまでいそぐめれば、われは、この日ならんからにいそがしとて参らざらんが
くちをしさに、出で立つを、一人うけひく人なし。「さばかりいそがしちらさせ
たまうてよかし。今日参らせたまひたらんに、院も大居殿も、よにいみじともあらじ。
参らせたまわずとも、あしきこともあらじ。かばかり雪は道も見えず降るめり。
わが御身こそ、車のうちなればさてもおはしまさめ、御供の人は、いかでか
堪へんずるぞ」など、わびあひてとどめつれど、・・・
この辺まで教えてください。また、どんな内容か知っている方がいましたら
教えてください!!
ちなみに、リード文は、
●筆者は、お仕えしていた堀川天皇の崩御後、幼い新帝鳥羽天皇に再び出仕する
ことになった。次の文章は、家人が間近に迫った出仕の準備に忙しい中、筆者が
亡き天皇の月命日(十一月十九日)を迎えた場面である。この文章を読んで、
後の設問に答えよ。
4 椿 [2009/04/12(日) 11:49:11]
初めて書きます。
ずっと探してた十訓抄の訳が見つかりました。
ZINさんありがとうございました。